2017年御翼7月号その4

                           

人生の選択―矢内原忠雄

 人生の選択―矢内原忠雄 (一九六一年、東京大学教養学部、学友会主催 講演記録より要約)
 大学生の思想と生活について調査をしている中に、こういう人にぶつかるのです。東大に入学することをもって人生の目的と考えている。東大に入学することが人生の目的だったものだから、目的を達したとたんに勉強の意義がサッパリわからなくなってしまう。人生の目的を東大入学ということにおいたというのは目的のおきどころが低かったわけですね。大学へ入ることは人生の手段であって目的ではない。人生は何を目的として生きるのか、人生は何を求めて生きるのかということを考えないと、個人の魂の空虚さはどうしても満たされないのです。自分の人生を何に捧げるか、つまりどのような人生を選ぶかという目的を設定して、そのために努力をすることによって、はじめて人生は満たされる。人間とはそういうふうにできているのです。
 いま私はここで「どのような人生を選ぶか」と言いましたが、われわれが〈選ぶ〉といっても、そう自由には選べない。〈選ぶ〉のではなくて、われわれが〈選ばれる〉のであるという言い方をしてもよいと思う。われわれは一定の社会的関係の中に生れている。ある家庭、ある社会、ある国、われわれなら日本、というふうにこれらの条件はもうはじめっから与えられており、きめられているわけです。この現実生活の中には、自分の選択によって自由にならぬことがあります。否、ありすぎるほどです。まず病気について考えても、病気を自分の方から選ぶということはない、病気の方からやってくるのです。この〈選ばれた〉ということを信仰的にみると次のようになります。人生は自分の思いもしなかったようなことが起るが、これは神が自分のために選んで下さった人生なので、政治的な圧力とか、その他の力によって決められたのではない。存在と生命とを支えて下さる存在が、私自身に選んで下さった人生なのだと信ずるのであります。たとえば東大入試とか就職とか、思うにまかせないことがたくさんある。もし東大を志望していた人が東大へ入れなかったからといって、その人の人生は無意味かというとそんなことはない。そんなことがあったら大変なことです。そういうとき、これは自分が失敗したと思わないで、そこに神の意志があったと考える。そこに神の意志を認めるのです。たとえば或る人が東京に住んでいたい、東京で就職したいと思ったが地方にまわされて、地方勤務になった。不便で文化程度も低くて、文化生活を楽しむことができないと思うと不満ですが、これは神様が、都会より文化程度の低い地方で、自分に与えられた高い知識や教養を、その地方の人に役立たせるために地方へ派泣されたのだと考えると、そこに使命感も起ってくる。感謝も起ってくる。
 われわれは自由を望みます。或る人々は、神から自由になることが、自由だというのであります。人間が自分で一切のことを解決する、それが自由だと考える人があるが、人間が人間のことを解決しようとすると、不可解なことばかりである。病気とか、正しい人が苦しんで悪い人が勢いをもっている。なぜこんなことが起るかわからない。それでは真の自由とは何か。神以外のすべてのものから束縛されていないということが人間の自由なのであります。思わしくない状態、心や身体や社会の状態からたえずおびやかされて心に平安をもちえぬ、ということが不自由なのであって、こういう状態から解放されることが自由といえます。また、自分でこれは正しいことだと思っていることでも、もしそれを主張すると首がとぶだろうと思って言えない、ということが不自由な状態なのであります。生活のおそれから正義感を殺すということは神のお守りを信じていないからです。正しいことをするものは、神がきっと守って下さる、生活していけるだけのものはきっと神が与えて下さるのです。自分のことを全部自分でする。という態度は真の独立ではない。今も言ったように、生活を恐れて、正しい事もなし得ず、まちがったことと知りつつ、それをやるということがおこるからです。
 ここで神をあるとして、つまり、人間を創り、導き、守り、心に希望と平安を与えてくれるところの神が〈ある〉という人生を選ぶか、そんなものはないんだという人生を選ぶか、という二つの道が分れます。人生を意味あるものにつくり上げていこう、どういうことが起って来ても、それを使命として生涯をおくろう、という〈神あり〉と賭ける人生と〈神なし〉と賭ける人生、そのどちらを選ぶか、この賭けるという所に意志の決定があるのであります。この決断によって個人の、または国家の運命が決まるのであります。私自身は一八歳のときに、はじめてキリスト教を知って、聖書をだんだんと教えてもらって、これまでの人生が築かれて来た。そういう私かいま諸君にお話をしておる。諸君がこの私の話を機会としてとらえて、人生の意味を考え、聖書を読んでみょうという気を起してほしいと思うのであります。私の話が聖書を読むという機会になればと願うのであります。

 (進学においては、受験に受かったら、その学校が御心、落ちた学校は御心ではなかった、と短絡的に決めることはできない。大切なことは、最善を尽くしていたかどうかである。自分なりにでも、最善を尽くしていれば、進んで行った方向が、「神が備えてくださった場であった」と次第に言えるようになってくる。)

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